CSRの基礎となる理論
前回からかなり間があいてしまい申し訳ありません。2012年度最初のブログは、CSRについてです。経営学の話ですけれども、経済学部の問題として出題された英文を参考にしています。
CSRとは「企業の社会的責任」(corporate social responsibility)と訳されますが、CSRという用語として一般的に使われています。
かつて企業の目的は、その所有者である株主(shareholder)のために利益をあげることとされていたのですが、その後、企業はshareholderだけのものではなく、様々なステークホールダー(stakeholder)のために存在していると考えられるようになりました。
stakeholderもカタカナで使われることが多い用語ですが、和訳すれば「企業の利害関係者」となります。つまり、企業の活動によって影響を受ける集団のことです。shareholder以外にも、従業員(employee)、納入業者(supplier)、消費者(consumer)、そして、地域社会(community)などが含まれます。
stakeholderたちは企業の活動によって影響を受けるわけですから、企業にはstakeholderたちの要求に応えていく責任があることになります。
さらに、環境汚染(environmental pollution)などのことを考えると、社会全体(society at large)も企業活動の影響を受けているのであって、企業には社会的責任(CSR)があることになります。以上がステークホールダー理論(stakeholder theory)に基づくCSRの概念です。
それ以外にも、企業は社会的契約(social contract)の下で社会から活動を許されているのであって、常に社会の要求や期待に応えていく責任があるという理論や、そもそも企業には、平等(equality)、自由(liberty)、公正(fairness)などの倫理的原則(ethical principles)を実践する責任があるという理論も紹介されていました。
続きでは四冊目の絵本、OWL AT HOMEを紹介します。
検閲とメディアリテラシー教育
今回は、メディア教育に関する話です。つい最近和訳した、ある大学の英語の過去問題を参考にしています。
アメリカでは、ラジオの時代から、子供や若者をメディアの「害悪」から守ろうという試みがなされてきました。メディアは暴力や人種的偏見を助長するので、検閲(censorship)によって、子供や若者の目に触れないようにしようという、法律や規制(regulation)が制定されてきたのです。最近ではインターネットの普及によって、censorshipを求める声が高まっているようです。
しかし、censorshipは合衆国憲法修正第一条(the First Amendment)に反すると筆者は主張しています。the First Amendmentには、「言論の自由(freedom of speech)または出版の自由(freedom of the press)を制限する法律を制定してはならない」と書かれています。これは大人だけでなく若者にも当てはまることだと言うのです。
さらに、「メディアにおける暴力」を検閲すべきだと言っても、何をもって「暴力的」と定義するかは難しいのが現実です。シェークスピアの演劇に暴力的な場面があったとしても、それをもって検閲の対象にしようという人はいないでしょう。
そこで必要になるのが、メディアリテラシー教育(media literacy education)だと筆者は言っています。literacyとは、元々「読み書きの能力」のことです。ちなみに、「読み書きができない」ことはilliterateという形容詞で表します。この意味が拡大して、「コンピュータの運用能力」をcomputer literacyと言ったりするのですが、media literacyとは、「メディアにおけるメッセージを正しく読み取る能力」を意味します。
筆者はメディアリテラシーについて、単にメディアのメッセージが現実とどのように異なるかを理解するだけではなく、メディアのメッセージを分析して、人種的または性別的な固定観念(stereotype)や暴力や商業広告が含まれていないかを読み取る能力だと定義しています。
この能力を身に付けることで、若者は、大衆文化における思想を理解して、無関心(apathy)を退けて、社会に貢献できる市民になることができるというのが筆者の主張です。
日本において小学校などでメディアリテラシー教育がどの程度行われているのかわかりませんが、インターネット上に情報が氾濫する現代社会において、有害なものを「規制」するのではなく、どのように有害なのかを「教育」する必要性が高まっていることは間違いないと言えるでしょう。
続きでは三冊目の絵本、レオ・レオニ作Color of His Ownを紹介します。
決定論と不確定性原理
今回は、文学部と工学部の編入学試験問題を参考にして書いていきます。文系と理系という全く異なる分野ですが、宇宙(the universe)や運命(destiny)について考えるという点でどちらも哲学(philosophy)を母体にしていると言えるでしょう。
17世紀に人類の思考に最も大きな影響を与えた装置(device)は、時計(mechanical clock)だったそうです。時計の規則性(regularity)、予測可能性(predictability)、正確さ(precision)は、宇宙のモデルとされ、宇宙の調和(harmony)と秩序(order)は、時計にたとえることで説明できると考えられたのです。
言い換えれば、宇宙とは神が創造した巨大な時計だということになります。したがって、時計が正確に時を刻むように、宇宙もまた外部から干渉(interference)を受けることなく効率的に機能するはずであり、その考えを元に、すべての出来事はあらかじめ決定付けられているという決定論(determinism)が唱えられるようになりました。つまり、時計の動きを予測できるように、あらゆることが予測できると考えられたのです。
また、時計の比喩(metaphor)は、還元主義(reductionism)にもつながりました。reductionismとは、時計を分解することでその仕組みを理解できるように、宇宙についても、その基本的構成要素(basic components)である分子(molecules)や原子(atoms)に還元することで理解できるという考え方です。
以上二つの考えをまとめると、moleculesやatomsの動きは予測可能であり、したがって、未来はあらかじめ決まっているということになります。
では、本当に未来はあらかじめ決まっているのでしょうか。量子力学(quantum mechanics)によれば、どうやらそうでもなさそうです。quantum mechanicsにおいては、ある種の結果は予測できないのだそうです。また、微粒子(particle)は、いくつかの異なる状態の重ね合わせとして存在し、観測されることでいずれかの状態に収束する(converge)のだそうです。
アインシュタインは、宇宙は予測可能(predictable)でなければならないと主張し、「神はサイコロを振らない」という言葉で、量子力学の不確定性原理(uncertainty principle)を否定したそうですが、現在では、uncertainty principleは量子力学の基礎となっています。
ここからは私の想像ですが、微粒子のレベルで複数の可能性が同時に存在しうるのであれば、これは巨視的な(macroscopic)レベルでも瞬間瞬間において、複数の可能性が同時に存在して、そのいずれかが選択されることで未来が決まっているということになるのではないでしょうか。つまり、未来はあらかじめ決まってはいないということになります。少なくともそう考えたほうが、未来に希望が持てることは間違いありません。
続きでは三冊目の絵本、レオ・レオニ作Color of His Ownを紹介します。
二つの誤謬
今回も経済学部の編入学試験問題を参考にして書きますが、内容は私たちが陥りやすい誤謬(fallacy)に関するもので、特に経済学の話ではありません。
fallacyとは、一見正しくみえるけれども誤っている推理のことです。post hoc fallacyとfallacy of compositionの二つについて説明していきましょう。
まず、post hoc fallacyについてです。辞書では「前後関係即因果の虚偽」と訳されています。これは、Aという出来事がBという出来事の前に起こったという事実を、Aが原因でBが起きたと思ってしまう誤謬です。
例をみていきましょう。あるレポーターが、フロリダ州はアメリカの州の中で最も死亡率が高いという事実を根拠に、フロリダ州の気候は健康に良くないにちがいないと結論付けたとします。このレポーターは、フロリダ州の住民に高齢者が多いという他の事実を無視してしまい、結果的にpost hoc fallacyに陥ったのです。
次は、fallacy of compositionについてです。倫理学用語で「合成の誤謬」と訳されています。これは、一部分について当てはまることを全体についても当てはまるだろうと考えることによって生じる誤謬です。
フットボールの試合で少しでもよく見ようとして立ち上がる観客を想像してみてください。一人だけ立ち上がるのであれば、確かによく見えるでしょうが、全員が立ち上がったならば、よく見えることにはなりません。
他にも、一人だけ多くお金をもらえば、その人は他の人より豊かになるけれども、全員がお金をもらえば、他の人よりも豊かな人はいない、という例が挙げられています。
経済学の例として、不景気のときに個々人が貯金を増やすことで、社会全体の貯蓄は減少するというものがあります。経済学部志望の方はなぜそうなるのか理由を考えてみてください(これは、実際の編入学の試験として出題されました)。
以上、二つの誤謬の話をしてきましたが、これらの例は日常生活でもよく目にするのではないでしょうか。自分が陥らないように気をつけたいものです。
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シートベルトと誘因
前回のブログでは、合理的な(rational)人の行動について、効用(utility)を最大化しようとするという表現を用いましたが、同じことは、費用(cost)と利益(benefit)を比較して意思決定をすると言うこともできます。つまり、誘因(incentive)に反応するのです。incentiveとは、罰(punishment)や報酬(reward)の見込みのことで、経済学の中核をなす概念です。
ここでincentiveに関する面白い例を紹介してみましょう。1960年代に新車にシートベルトの装着を義務付ける法律が制定されたときのことです。その結果どのようなことが予想されるでしょうか。当然、直接的結果として大事故での死亡者の数は減るでしょう。しかし、話はそれで終わりではなく、事故の数自体はむしろ増えることが考えられるのです。ドライバーにとって、ゆっくりと慎重に運転することは時間と労力がかかるため、費用となります。ドライバーはその費用と安全運転によって得られる利益を比較して、どの程度ゆっくり慎重に運転するかを決めることになります。例えば、凍結した道では慎重な運転によって得られる利益が大きくなるため、より安全な運転をするでしょう。そこで、シートベルトの影響についてですが、ケガや死亡の可能性を減らすため、ゆっくりと慎重に運転することの利益が減ってしまいます。その結果、ドライバーはより速く、あまり慎重でない運転をするようになり、最終的に事故が増えるというのです。
実際、Sam Pelzmanという経済学者が、1975年に、自動車の安全性に関する法律の影響について研究したところ、似たような結果が出たそうです。
以上は、最近読んだ経済学部の編入学試験問題の英文を参考にまとめたものです。個人的意見としては、ドライバーが安全運転するのは、警察に捕まって罰金を払うのが嫌だからだというincentiveの影響のほうが大きいような気がするのですが、いかがでしょうか。
続きでは三冊目の絵本、レオ・レオニ作Color of His Ownを紹介します。